好きな人間がいた時は、幸せだったのかな。眩んでいる現実に光が植えられて、未明に見えている朝焼けが、少しだけ明るく見えていた。言えなかった言葉。体だけを求めていた若い頃の記憶は、果てしない銀河に保存されている。不安が不安を呼んで、生暖かい部屋の温度が、広がらない僕の心を包み込む。天気は晴れ。不思議と心はだんだんと晴れてきて、ひとときの勢いを閉じ込めて、掻き消して、音になって、言葉になって、僕のことを迎え入れてくれる。
心とは、器なのだろうか。自分のことを入れる器?それとも、他人のことを入れる器?育ててきたことを、少しだけ後悔することもあるけれど、それでも、感じられる器があってよかったと思う。
何をすることもできない病室で、一人静かに綴る秋。銃撃戦の音が聞こえる中、人が死んでいく中で、僕はこうして平穏に暮らしている。なんだか、それが虚しく感じる時もある。僕も、あっけなく死んでみたかった。あっという間に積み上げてきたものを崩して、大切なものを無かったことにできたら、なんて楽なのだろうと、思う時もあった。
一人で呟く音。少しだけ、ピアノに手をかけてみる。きっと迎合なんてしないほうが、僕ら楽なのだろうな。葉っぱが浮かんでいる湖の上で、鳥が飛んでいる。
「何をするにも、縛られる世界が嫌。」
「そうだな。」
「生きているだけで、何かをしなきゃいけない人間は、世界で一番、不幸ね。」
「それは、そうかもな。」
「あなたは、なんで生きているの?」
「死にたいから、生きてる。」
「同じね。」
「でも、簡単に死ねないから、こうやって、不思議と君と出会った。」
「そうね。」
「簡単なことだと思っていた、人生なんて。」
「違った?」
「思ったよりも、めんどくさい。」
「カフェラテを、作るよりも?」
「まあな。」
優柔不断な気持ちで、簡単には決められない世界が、少しだけ苦しい。どちらかに決めないといけないみたいで、心が休まらない時間が辛い。遺言を残した祖父。黄緑色の財布をずっと持っていてほしいなんて、そんなの理不尽じゃないか。見えている世界の美しさなんて、人それぞれなのだから。
言ってしまえば、空に天井はない。ならば僕らにはなぜ、終わりがあるのだろうか。終わりがあるから生きようとするなんて、命はあまりにも他責じゃないか。
不可解なことを、曖昧なままにすることが、本当の美しさなのだろうか。外で、雛鳥が泣いている。
小さな虫が、そっと指の上に止まる。
汽笛という言葉が好きなのは、なぜなのだろうか。遠くで聞こえる夏の音が、ゆっくりと変わる自然の音と相まって、大きくなったり小さくなったり。本当にわからないな、この世界は。
行き交う人間のことを、羨ましく思う時もあった。自信がない人の方が、魅力的に思える時もあった。でもやはり、自分が一番大事だからこそ、生きているのだと思う。
病室で寝ているのは、本当に僕なのだろうか。本当は違う世界で、のんびりと僕の帰りを待っている僕がいるのではないかと、淡い期待を背負ったまま、眠りにつく。そしてまた、朝が来る。
「言わない方がいいこともあるわ。」
「そうだな。でも、思ったことじゃないか。」
「それでも、言わないことができるのが人間よ。」
「人間、か。」
「あなたは今、生きているのよ。」
「生きていることが、少ないことに感じる。」
「それはまだ、深みを知らないだけだわ。」
「じゃあ、そもそも知るってなんだ。」
「白から黒、黒から白。その過程なんじゃない。」